教材開発と学習課程いぢり
「巻末ふろく、アニメ風さし絵… 関心引く教科書に腐心」 @asahi.com
苦心と言え、苦心と。
しかしどうしてこう教育をいじりたがる人が多いのかと。効果が上がるのかという疑問もあるが、いぢることと工夫はイコールなのか、という疑問が大きい。
もちろん教員の配置を弾力化するとか、そういう話はビジュアルに乏しいし、一般の人に分かりやすい話でもないので記事になりにくい、記事として記憶に残りにくいという話はあるかもしれない。要するにいぢる系の話ばかりが記事になっているというわけだ。そりゃあるだろう。
それにしてもだ。
教育をかじった人間からしても最近の動きは誉められた感じは受けない。安易に学習内容を削れば批判を受けるのは当たり前だし、何がゆとり教育で何が総合なのか、国民にきちんと分かりやすく説明できていない文部科学省のやり方は全面的に批判されて仕方がないものだ。
そのうえで「また何か変わるの?」という印象が今回の記事である。聞けば削った内容の一部を発展的な学習として教科書に復活させ、なおかつ付録をつけるという。学習に面白さをということなのだろうが、果たしてそんなもので「学校での勉強」が楽しくなるもんだろうか? それに学校での勉強の楽しさと理系離れは関係ないような?
この話は展開がでかくなるので適当に端折るが、理系離れの問題は理系に夢を抱けない現在の社会の縮図だと自分は考えている。社会人になりたくないモラトリアムと根っこは一緒だ。乱暴な話だが社会に出ること、理系を学ぶことに希望をもてないという理屈だ。根拠はないがこの理屈には自信がある。自分が身を持って感じているから。
実際に理系のスキルは実社会ではそれほど役に立たない。対人、コミュニケーションスキルの方がよほど大事だ。(これは社会人という意味での社会ではなく、その人が今まさに生きている社会という意味である。)しかしどちらのスキルにも人によって得手不得手があり、習得スピードには差がある。なのに役に立つか立たないかで言うと明らかにコミュニケーションスキルの方が役に立つ。苦労して理系のスキルを身につけるメリットを感じられないのは当然ではないだろうか。それに今は手塚治虫が描いた未来にみんながワクワクしていたような科学信仰の時代ではない。公害や健康被害などの科学の弊害もたくさんあり、それをみんなが知っている。理系離れは学校や塾なんかの狭い社会に要因があるのではなく、科学そのものがたくさん持っているツケの現われでもあるだろう。
(大人の理屈で言えば理系のスキルだけでは起業のように自らチャンスを増やすことはできない、というのも大きいように思う。ストイックに理系の力を極めても、それがストレートに幸せに結びつくケースはごく稀である。これは簡単に言えば研究所なんかの施設の定員の問題。それに、名誉も得られないことが多いな。苦労の割に「自己満足」で終わることが多すぎますよ、理系は。)