誰にでもできる難しいこと
自分が勝手に価値を感じて勝手に喜びを見出していることが少なくとも二つある。
- 日本語
- 写真
どちらも今の日本で育った人ならほとんどの健常者は造作もなくできる。日本語を読み書きすること、写真を見ること撮ること。しかしその真髄に迫れる人はごくわずかしかいない。自分が迫っているとは恐れ多くて言えないが、努力はしているつもりだ。磨ける限り磨き続けていきたいと思う。1
同じようにたいがいの人がある程度経験していて、なんとなく一家言持った気になれてしまうものがいくつかある。そこにやはり自分も何がしかの興味を持つ。しかしまだまだだなと感じている(要するに努力が足りない)ことは
- 教育
- 組織
- 政治
辺りか。こうして並べるとこれは「ケチをつけやすいテーマ」だということが分かると思う。
ほとんどの人が何がしかの教育を受け、また子を持てば教育する立場に置かれる。ほとんどの人が何らかの組織に属し、組織内で様々な役割を演じている。ほとんどの人が政治の影響下に生活を営み、政治家の失態、失言をことさら大きく扱うニュース情報に晒されている。
これらについて、とりあえず自分の目の前で起こること、起こったことに疑問や反感を抱けば、それでオレ流意見のできあがりだ。そんなオレ流意見はある面では圧倒的に正しい。しかし局所的に過ぎる。
局所的なことは悪いことではない。事象を問題として認識するときはいつも local であるべきだと自分は感じているのでその点を否定するつもりはない。逆に常に global な視点で問題を捉えるなんて、いかにもスマートだが「証拠と論理のゲーム」のようで個人的にはいけ好かない。ポイントは局所的「過ぎない」ための努力にあると思う。
まとめると、教育、組織、政治について、よくある飲み屋の一家言以上のものを目指したいってことなのかな? この辺りの、できそうでできなさそうで、でもやればできるんじゃないかなって感じが、自分は好きなんだな。きっと。たぶんこれは音楽や絵やスポーツなどのいかにも才能だと誰の目にも明らかなものを一つも持ち合わせていない自分が見出したニッチなのだろう。
実際にいつまでできるかは分からないけど。 ↩