考える。かく。組み立てる。

先日の日記で

図や表にならないものはどこかがおかしいとさえ思っている。

と書いたがこれはネタではなくマジである。

まぁこうしてだらだらと駄文を大量に書いているくせに何を言う、と思われるかもしれないが、私にとって思考と文章はベツモノである。文章は言いたいポイントとポイントを繋いで「検索性の高い形に外在化するための一つの道具」であって、実際の思考は誰にも見せることのできない「映像」になっている。私の頭の中では形も色もよく分からない何かがうごめくアニメーションで思考が形成されているのである。

だから逆に他者の言葉も、そういう「うごめく何か」になるまで、例え言葉として理解できても頭の中にすんなり入ってはこない。私は頭が悪いのでこの変換にけっこう時間と情報量と経験が必要なのだ。そのためにあれこれ試行錯誤を行い、数多くの言葉を飲み込み、対話し、「かき」、様々な角度と方法で変換を試みる。

かく。これ重要。以前はこれがスムーズにできなかった。

ずいぶん前(高校生くらい?)から考えることと「書く」ことに興味を持っていたんだけど、「書く」という行為を今のように「かく」と捉えられるようになるまでには8年くらいは掛かったように思う。「かく」。これは私の中で「書く」と「描く」の区別をしなくなった言葉である。私は頭の中で「書く」も「描く」も「かく」と読んでいる。その対象が文字であるか文章であるか図であるか、「かく」ときにはそんなに区別していない。そりゃまったく同じというわけにはいかないが、今はどちらも頭の中の「うごめく何か」を見える形にするための道具に変わりはないと思っている。

文章の方が言い回しなどで補足しやすい、小回りが効いてごまかしやすいかなとは思う。しかし同時に文章には言葉の持つリズムや繋がりに引っ張られてしまうという弊害もある。気をつけないと文章の持つ力に振り回されてしまうのだ。だから考えるときは文章で考えないようにする。まったく言葉を使わずに考えるのは不可能だけど、そのベースを文章というかフレーズかな、「できあがった言葉遣い」に求めるのはかなり危険だと思う。いい言い回しを思いつくことはある。でもそれが自分の思考にうまく使えるとは限らない。

もう一つ。「かく」という行為を「発表する」ことや「提出する」ことから切り離せること。これも大きい。自分のために書く。学校で作文を、大学でレポートを「書かされている」間はなかなか精神的な自由を獲得できない。課題として書くことが負担である間は、これを自分の道具や武器として活用するのは少し難しいと思う。(仕事で書くのもつらいはつらいだろうが。)

そして組み立て。考えを練るときにできた文章、図などのパーツを整理し、組み立てる。組み立てたものがこうして表に出てくる。(もっとも、この tDiary 上の文章の一つ一つはまだパーツのレベルのものがほとんどで、パーツのまま公開できてしまうところが Web 日記というものの持つ不思議な力だと勝手に感心している。)

完成品はツァラトゥストラの語りを書き写すようにいきなりは出てこない。

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