いい仕事したいじゃん
改めて思った 2 + 1 のこと
最近、人に話すことで改めて自分の思いに気づいたことが二つある。
- いい仕事をしたい
- 中小企業には時間も人手も余裕はない
軽く掘り下げて書き残しておきたい。そして書いている途中で出てきたのが
- 老害になりたくない
である。これも残しておこう。いつか振り返ったときにいろいろ思えるかもしれない。
いい仕事したいじゃん
「いい仕事」という言葉はいろいろな意味を含む。人によって定義が変わってしまう曖昧な言葉とも言えるけど、ここではとりあえず曖昧なまま行ってしまっていいんじゃないかと感じている。エンジニアにはエンジニアの、営業には営業の、会計には会計のいい仕事があるはずだ。それでいいと思う。
正直なところ自分は何もしなくていいなら何もしたくない人間だ。好きなことだけダラダラできるならこんな素晴らしいことはないと思うし、それでも恐らくヒマで困っちゃうようなタイプではないと思っている。
ところが残念ながら現実はそう甘くない。仕事しないと生きていけない。社会が抱えるあまりに大きな負債について「なんでこんなアホな話ばっかなんだ」と思うことは多いけれど、ひとまずそれを置いて目の前の問題に対処しなければいけない。つまり仕事するのだ。
どうせやり続けなくちゃいけないのならば「いい仕事」をしたいと自分は思うタイプである。アジャイル的には「お客様の満足」と言うのがここはかっこいいところなんだけど、あまり一つの言葉で置き換えてしまいたくはない。将来の自分が開発しているとも限らない。
中小企業には時間も人手も余裕はない
これは大きな会社でも特に真面目に国内トップレベル、あるいは世界レベルで「競争」しているところも同じかもしれない。要するに
余っているものなんか何もない
のだ。だから「本当に必要なの?」と疑問に感じるような仕事はどんどん見直さなくちゃいけない。
例えば IT の世界でよく聞くのは
- のちにちゃんと振り返りもしないのに大量に書かされる言い訳文書
- メンテナンス性、検索性の悪い Excel 仕様書
- 重すぎてまともに作業できない Excel のバグ票
- 仕様書と合ってないコード
- 酷似しているのに微妙に違う大量のコピペコード
- 意図を伝えず動作だけを説明する「意味のない大量のコメント」
- 作業効率を著しく落とす「コメントアウトされた前バージョン」
これらはすべて現実によくある話1。ここで挙げたのは大まかに
- 無駄な文書、無駄なコード
- 作業効率の悪い文書フォーマット、作業効率の悪いコード(読みにくいコード)
に集約される。
つまり日々の生産性を確実に落とすものたちだ。ということは全部見直しの対象である。見直さないと、本来達成すべき「価値」ではなく「作業」に自分の「手」と「意識」を奪われてしまう。
しかしここで問題になるのが多層下請け構造。元請けなら文書、コードのルールは自由に設定できるが、下請けの場合はそうもいかないこともよくある。幸い自分はそういう環境にはないので、直せるところは直していかないと
競争力を失って退場させられてしまう。
それが我々の生きる世界なのだ。
老害にはなりたくない
あれ、三つ目がでてきてしまった。
書いてるうちに再確認できたことがもう一つあった。自分は
老害にはなりたくない
んだなと強く思った。
上に挙げた問題は基本的に
過去を踏襲しているだけの作業が新たな価値の創造を阻害している
と言えると思う。つまりかつてはそれが最善と思われたのでそうなったのだ。多少好意的解釈を多めに加える必要はあるが。しかし今はより適切な道具を適切に使いさえすればもっと良い作業に変えることができる。少なくとも
- 現代的なバージョン管理システム
- 現代的な Issue Tracking System
を正しく運用すれば、上の問題の多くは解消できる。もちろん導入しただけですべて解決するわけではない2が、少なくともルーチンワークのコストを下げる準備はできる。
だからこの二つは最低限達成しなければいけない。
しかしそこで浮上してくるのが
教育/学習コスト
の問題である。
ここは残念ながら失うものの多いベテランの抵抗が強い。年を取れば取るほど新しいものの習得は億劫になるし、ヨーイドンで同時に学習を始めたら若いやつにかなう訳がない。気持ちは分からなくはないが、もうその状態は老害になっていると思った方がいい。
自分を振り返って、自分の周りの人間を観察して思い当たることはないだろうか。はっきり言って自分で触ってもいないのにしたり顔で○○の批評をするやつは老害だ。年齢は関係ない。気をつけて掛からなきゃいけない。○○には何を入れてもいい。ちょっと前ならスマートフォンが入るし、とりあえず新しめのものを入れればだいたい成り立つ。
自分は今ちょうど境目にいると思っている。今はまだ老害ではないが、ちょっと学ぶ意欲が足りなくなったらあっという間に老害になる危険を感じている。学ぶ意欲というのは個性かもしれないが環境の問題もやはり大きい。老害になった方がいいかもしれないと感じてしまうようなら、「見捨てる」結果になるとしても、環境を変えた方がいいのかもしれないとも思う。
あるいは例えば新しい技術についての判断はしない、ただの老として生きるか。今の自分はまだ老害に腹を立てる側の人間である。つもりだ。しかしいつか労害になり得る。いつかストップを掛けてしまう側の人間になる。そのときにはもうその判断をしない立場にならなければいけないのではないかとも思っている。