松本被告の判決が近づき、各局で特番を組んでいる。
圧巻は NHK だった。手紙を基本とした声と顔写真とほとんど静止画のような「場所」の映像を中心に構成されたものだが、他のどの局よりも事件の内実に迫っていたように思う。そこには局側の市民への煽動的な要素はほとんどなく、だからこそ恐ろしいほど自分の中に入り込んでくる。自分以外の人間がどう感じるかは分からないが、正直、これがテレビの力かと感服した。クオリティの高い映像と声の持つ力。表現がシンプルだからこそ内容が研ぎ澄まされ、受け手との距離を縮める。自分の中の思考の歯車がやたらとスムーズに回り、様々な思いが去来する。
FreshPorts をチェックするようにした。ports がものすごい勢いでどっかどっかアップデートされていく様子がよく分かって楽しい。思わぬ発見もある。FDclone と openssh が今日上がっていた。サイトを確認すると本家の openssh-portable が上がったのが昨日。早い。スラドのセキュリティ部門に頼らずそろそろ自分で情報集めるようにせんとなぁ。
ちょっと見ない間にMatz日記がすごいことになっていた。
個人的にはまつもとさんの書いていることにこれと言って疑問は感じないんだけど、世間では妙な誤解というか偏見があるんだなぁという認識を新たにした次第でして。
なんか一つには「オープンソース」という言葉を取られた、みたいな認識があるみたいに読めますな。
オープンソースという言葉が各種メディアに出始めたときに、「あぁこんなことかな」と思っていたことが、後から出てきた(実際には「あとから知った」のはず)OSD だのなんだの「やたらと一生懸命な人たち」によって「その解釈は定義に合致しない」と指摘され、気軽に使えなくなってしまった、つまり奪われてしまった、という感じ。
しかも知れば知るほど「あのライセンスもこのライセンスもオープンソースです」てなことになってるじゃないか。なんだそのおいしいとこどりって言うか、えぇかっこしいっていうか、単に目立ちたいだけ?みたいな「なんだかこいつらハナにつくぞ」的な感情。
もちろんこれは自分勝手な想像以上の何ものでもないんだけど、なんとなくそういう風潮ってあるだろうなと思う。例えば Linux や Apache は世界的にすごいらしいってのは事前の知識としてあったとしても、逆にその世界的に有名なソフトウェアの名前を利用している妙なやつら、みたいな捉え方って十分あり得ると思う。
それだけ固有のモノに対する名前は強いし、そうでない言葉は弱いものなのではないかと。
「日本の」「オープンソース運動家」はそういう逆風を受けているってことなんじゃないかなぁ。海外の様子は知らないし、オープンソース「開発者」はまた違うと思うけど。「運動」って言葉はよくなかったなぁ〜。やっぱ日本で「運動」って、なんだかうさんくさい感じするもの。なんか中身がなくて題目だけ立派な感じするもの。