otune さんとこ経由で iwatamの何でもコラム より。
とても刺激を受けました。感謝。
この話に当てはめると「方法論」では自分は文系だ。理系崩れの文系というのが自分のウリの一つだったんだけど、今回はスパッと文系になる。以前書いた言葉で言うと global と local がそれに当たる。自分の興味ある問題は global に通じる必要がない。普遍性も要らない。あるかもしれないけどそれ言ってると話が進まなくなっちゃう。
ただ、「説明」に当てはめると理系になる。いわゆる文系の人の説明が言葉遊びに聞こえるし、「文章で考えるな」と私は常に意識している。説明するときは箇条書き、表、図を使うのが最も好きで効果的だとも信じている。もっと言うと図や表にならないものはどこかがおかしいとさえ思っている。
先日書いた
受け止めるべきは「下がったこと」じゃなくて「日本の子どもは学校の勉強がとてもきらい」「海外では学校の勉強は日本ほどきらわれていない」ということじゃないのか
という話をもっと具体的に、何が間違っていた、どうすべき、まで踏み込んだ話。と自分には読めた。実際に出された問題を見ている点が実に強いと思う。
いい問題、悪い問題というのは長く続く根の深い問題である。そもそもテストには二種類ある。力を測り受験者を振り分けるためのテストと、達成度を確認しその後の学習方針を設計するためのテストである。上のコラムで想定しているのは後者のテストである。しかし日本では前者のテストばかりに教える側も学ぶ側も戦々恐々となっているので、いい問題悪い問題という考え方をすることがすでに難しくなっているのではないだろうか。1
残念ながらこのコラムは「本当の学習とは」と違い出典もなく、心もとない感じもするが、
「ゆとり教育をどうやったらいいだろうか」とまず考えた人は失格である。「ゆとり教育とは何だろうか」とまず考えなくてはならない。何なのかがわかれば、そのためにどうすればいいかは自ずと見当がつく。そういう思考回路をつくることこそがゆとり教育なのである。
の部分だけは押さえておかないとダメですな。
というか、ゆとり教育なんてものは存在しないのだ、と言ったら暴論ですか? 文部科学省(当時の文部省)や中教審(臨教審もかな? 確認してないけど)が目指したのは子どもを怠けさせることや教科書を薄くすることなんかじゃなくて、「意味も分からず公式や解き方や年号を詰め込んでいてもダメだ。もっと本質を理解するためにはじっくり取り組まなければいけない。」ということまでのはず。
総合的学習の時間や週5日制などの改革が同時に進行したおかげで「教科学習の時間削減+週休2日=ゆとり」みたいな誤った認識が広まっているから批判対象になるのだけど、そもそもこの認識こそが批判するために誰かによって作られたもの2なのだから、その文脈に乗っかっちゃってる人はもうゆとり教育は批判することしかできない。そういう人たちの中では「ゆとり教育を実践したから学力が低下している」のではなく、「学力が低下してきているらしいが、それはゆとり教育とやらのせいに決まっている」という感情が出発点でありゴールなのだ。自分で言い直して気づいたが、これは批判ですらない。
流行り言葉だからと「ゆとり教育」をマスコミや blog などで扱ってはいけない。まずこの言葉を疑うところから始める必要がある。